-
ヴァーチャルという思想/フィリップ・ケオー
¥500
SOLD OUT
1997年8月初版 第1刷 227頁 本上部にシミあり。中身は良好です。 フィリップ・ケオーの原著が書かれたのが一九九三年。現在では当たり前になりつつあるヴァーチャルという概念ですが、著者はこのヴァーチャルというせまりくる新技術に期待と警鐘を綴っています。 写真や映画、テレビなどの平面的な従来のイメージとは違い、ヴァーチャルの世界は体系化された心象世界に人を没入させます。まるで別世界なヴァーチャルの世界ですが、その基礎は現実にあるモデルであり、ヴァーチャルと現実は相関関係にあります。 ヴァーチャルの世界では何ができ、どんな世界なのか?夢のような世界に想像は膨らみがちですが、変化するのはヴァーチャルと相関関係にある現実への認識なのだと思います。 互いに相関し、浸食しながらヴァーチャルと現実は溶け合いつつある現在ですが、九十年代初頭に予見めいた哲学的な思索を繰り広げていた本著には、現在を見通す何かヒントがあるはず。そして、この怪しい表紙。何もないわけありません。
MORE -
近代絵画/A・オザンファン、E・ジャンヌレ、吉川逸治訳
¥500
SOLD OUT
1974年3月初版 第2刷 202頁 箱付き 箱の痛みは激しいですが、中身は良好です。 二人の作者のうち、E・ジャンヌレという方は実はコルビュジェです。シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリというのがコルビュジェの本名らしいです。コルビュジェはオザンファンと共に、”ピュリズム(純粋主義)”を提唱し、絵画を書いていました。 モンドリアンも幾何学の純粋性について熱く語っており、純粋主義という名前の通りコルビュジェもモンドリアンと無縁ではありませんでした。本著は機械文明によって社会が変わり、感覚が変化した結果、自然の中に幾何学が現れた瞬間に、自然的秩序の存在に気付き、それが感動になると記しています。 ピュリズムはキュビズムで描かれた個人的感覚世界に秩序を見出して描くという手法なのかなって思って読んだのですが、ついついモンドリアンと同じことを言っていると思うばかりで、凄く自分自身の恣意で本著を読んでしまっているかも…。私の感想は抜きにして、コルビュジェの絵画論に触れられる本著はおすすめです。 本著では機械文明によって社会が大きく変わったという記述も多く、未来派の要素もすごく感じます。未来派やロシアアバンギャルドの構成主義などは建築へのアプローチもあった文化だったので、同時代のキュビズムとは一線を画していて、抽象の礎って感じだったのかぁと思ったりします。 ちなみにSD選書は鹿島建設系の出版社が発行していた建築系の文庫です。価格も手頃で、何よりはずれがない。そして、企業が質の高い文化事業をしているというのが素晴らしいです。 モンドリアンは絵画に留まりましたが、コルビュジェは建築に移行します。コルビュジェにとって建築は世界をキャンパスにした絵画だったのでしょうか。だとすれば、世界をキャンパスのような真っ白な世界にしてしまった。
MORE -
自然から抽象へ=モンドリアン論集/ピート・モンドリアン 赤根和生訳編
¥3,800
SOLD OUT
1987年初版 第1刷 331頁 表紙にヨレ 少し書き込み 中身も少しヤケてます 抽象を極限まで絵画で突き詰めたモンドリアンの論集です。著者の思想は作品のように堅牢で、キュビズムから発生した近代芸術がどのようにして自身が提唱するネオ・プラティシズム(新造形主義)へと至ったかを熱く純粋に語られています。 例のごとく私の所感なのですが、キュビズムは不均衡な自然を描こうとしており、純粋な規則性のある客観が描けておらず、シュルレアリスムは個別性があり、そこに普遍性がないと説きます。著者は客観的に存在している建築のように現実を歪曲させずに絵を描き、静的に均衡がとれた三原色や水平・垂直にこそ自然が秘めている純粋で普遍な美さが現れると語り、その美しさに言葉を排除して全存在で純粋に魂を振動させるべきだと、革命家のように熱弁しています。 私が気になるのは、モンドリアンと時期を同じくして、コルビュジェも画家から建築家に転向を始めており、この時代はキュビズムやシュルレアリスムが抽象へと転換した時期だったのかなって思います。考察していく上では、モンドリアンは建築の魅力についても多く語っており、良い資料だと思います。 あくまでも抽象は自然の美しさを純粋に表現するための手段であり、幾何学形を建物のように静かに均衡してバランスを保ち表現することで普遍性が生まれるのだとモンドリアンは説いています。 近代芸術の祖であるセザンヌが写実主義から抽出した主観的な色彩と造形に、モンドリアンは規則性とバランスを与えることで普遍性や純粋さを画策したんじゃないかなって思います。 ダダやシュルレアリスムが個別的すぎてバラバラになってしまった感性を束ねる役割を抽象は果たしたのではないでしょうか。
MORE -
Webの創成 World Wide Webはいかにして生まれどこに向かうのか/ティム・バーナーズ=リー 高橋透監訳
¥3,800
SOLD OUT
2001年9月初版 第1刷 279頁 WWWの生みの親、ティム・バーナーズ=リーの著作。テッド・ネルソンが提唱したハイパーテキストを実現させ、新しい常識となったWebを作り出した著者によって、Web創世期の記録とWebの未来へのイメージが、淡々とした冷静な文体で綴られています。 CERN(欧州原子核研究機構)の社内情報システムとして生まれたWebが世界へと普及する過程が綴られているのですが、Webが広く利用されることを最優先し、営利になびかずコンソーシアムの結成に至る迄の過程と、節々で現れる家庭への愛情が非常に好感が持てました。 本書の後半はWebの展望について綴られていおり、話の根幹にあるのは二つの点。一つは、人と人との共同作業ツールという点と、二つ目は機械と機械が共同でつながり、機械そのものが自立性とは言わないまでも更なる効率化が進めていくこと。そして、二点を達成させて人のきまぐれと機械の論理的な思考が共存できる場所をつくるっていう感じなのかなって思いました。論理が派手に飛躍しているとは言えませんが、とても堅実に語られています。 タイムシェアリングという概念でネットワーク上での共同作業空間を提唱したダグラス・エンゲルバードなどが描いた未来への青写真を着実に現実化させており、Webは過去の系譜の延長上にあるものなんだなと実感できました。 個人的に面白かったのは、地球規模の脳としてWebを神経細胞に例えた箇所があったのですが、神経細胞そのものが脳をコントロールすることはできないし、個人はそれに気付くこともできないだろうって語ってた箇所ですね、SF小説のような未来ではなく、著者はあくまでもWWWは思考の拡張っていう側面を強調していたような気がします。
MORE -
TECHNIUM テクノロジーはどこへ向かうのか?/K・ケリー 服部桂訳
¥3,000
SOLD OUT
2014年6月初版 422頁 少しカバー上部にしわ その他は非常にいいです。 ハワード・ラインゴールドと同じく”The Whole Earth Catalog”の元編集員であり、"Wired"の初代編集長でもあるケヴィン・ケリーの著作。コンピューターに限らず広義のテクノロジーについての考察を進め、生態系のように時代と共に変化していくテクノロジーを”テクニウム”と題して、そのテクニウムが進む方向性を探って行きます。 ケヴィン・ケリーはもともと海外を自転車で放浪し写真をとっていたらしく、その自然を愛するヒッピー的な出自と、自然科学やコンピューターなどの幅広い見識が相まって、自然とテクノロジーが折衷した姿を描いているように思えました。Wiredの編集長という肩書きに納得です。 個人的にかなり印象に残っているのが、ユナボマーの話です。彼はテクノロジーが旧来の自然主義的な人間性や自然そのものを破壊すると主張し、テクノロジーを切り開く研究者や企業に爆弾を送って殺害しようとしたテロリストです。テクノロジーの未来を担う人を殺そうとしてまでテクノロジーを嫌っていたユナボマーですが、このユナボマー、自然主義を徹底するためか山奥の小屋で一人暮らしをしていたそうなんですが、近くのスーパーによく買い出しに行っていたらしいです。彼は徹底的にテクノロジーを世界から排斥するために生きるテロリストでしたが、自身の生活からテクノロジーを除ききることはできなかったようです。 ユナボマーは極端な例ですが、自然主義を賛美しつつも、テクノロジーには頼るっていう態度は、自分を含め世の中に結構多いなって思います。この矛盾は未だに答えは出てませんが、産業革命以降の近代芸術は街に対して自然と同じように無垢な視点を持つ事で、この矛盾の呪縛を緩和してくれているような気がしています。 ちなみにケヴィン・ケリーですが、”〈インターネット〉の次に来るもの―未来を決める12の法則”という本を最近出してます。(この売れ線をねらうようなタイトルなんとかならなかったのでしょうか。)私はKindleで買って読んでしまったので、出品できない…。電子書籍もビットコインと同じようにネット上で現物のように扱えたらいいのに…。ブロックチェーン…。
MORE -
新・思考のための道具 知性を拡張するためのテクノロジー/ハワード・ラインゴールド著 日暮雅通訳
¥1,000
SOLD OUT
2006年6月初版 473頁 状態は良いですが、少し書き込みあり スティーブ・ジョブスも愛読していたと言われる、"The Whole Earth Catalog"の元編集者、ハワード・ラインゴールドによる、19世紀初頭からシリコンバレーに至るまでのコンピューターの開祖達の物語を綴る大著。開祖達本人の言葉の引用も多く、コンピューターの歴史がなした山嶺を辿ることができます。商業的に成功したビルゲイツやスティーブジョブスについては殆んど語られておらず、彼らの栄光の影に隠れた偉人達の物語が記されています。 開祖達のエピソードはもちろん面白いのですが、著者は壮観としてコンピューターは心の増幅装置であると語ります。インターネットとコンピューターによる破壊的メディアで、知識を解放しコミュニティを増大させ、知的能力の向上を諮った先人達の功績は知識だけではなく、心をも増幅させたっていう意味なのかなぁと私は読みました。また、筆者はマクルーハンが語る17世紀のグーテンベルクにおけるメディア革命に似た転換期がやって来ているとも語っています。 マクルーハンのように予言的で大胆なことは語らない著者ですが、過去の膨大な資料をまとめあげ、予測不可能な現在が堅実に検証されているように思います。 著者は、われわれはテクノロジーで社会を変革するのは得意だが、テクノロジーをどう使うべきかは科学者は答えられず哲学者は何千年も議論していると語ります。「何に向かって進歩するのか」その答えを出すのは大変だと本著で言いながらも、果敢に挑んでいる良作。 ちなみにバーチャル・コミュニティという言葉は著者の造語らしいです。 最近は、コンピューター思想とでもいいましょうか、この辺りの本を漁るのが好きです。
MORE -
ニコラ・テスラ 秘密の告白/ニコラ・テスラ 宮本寿代訳
¥1,000
SOLD OUT
2013年1月初版 状態は非常にいいです。 モーターを発明したニコラ・テスラの自叙伝です。エジソンの影に隠れぎみらしいですが、コイルに電流を流すと回転することを発見した著者の功績は半端ないです。本著は自然や人類が持つエネルギー、さらには永久機関にも言及しており、世界を動かす力について著者の知性が余すところなく放電されています。 著者は世界こそがシステムそのものであり生命こそ機械だと語ります。自然エネルギーについて語っているところなど、これってエコロジーだよな、と感じいるところもありましが、著者は私の意図など軽く超え、生命のない頭脳を持った機械(ちなみに人類は自然が生み出した自動機械)、自然エネルギーの無線伝送、フリーエネルギー、そして惑星間同士の交信など、著者の想像力という無線機械はどこまでも届きそうな勢いでした。そして驚きなのは、これが1900年前後に書かれているということです。 世界を変えた人が初期衝動で描写する未来図といった感じで、こういうものに眼がない私は興奮しましたが、誇大妄想でオカルトなところもあると思います。 エジソンもかなりオカルトな一面があって、「エネルギーは不変なので、魂というエネルギーは人間の死後も存在し、このエネルギーの蓄積こそが記憶なのだ」という言葉を残していたり、電気を発明した際、”人類は希望の象徴である光を、自由に操れるようになった”みたいなことを言ってたとどこかで読んだような気がします(うろ覚え…)。晩年は死者と交信するための電信装置を発明しようとしてたとか。 ニコラ・テスラやエジソンの共通したオカルト傾向に思うのは、電気や無線通信には人の思考を拡張させ、想像の地平を拡げる力があるんじゃないかなっと漠然と思ったりしましたが、どうなんでしょうか。呪術化するWifi…インターネットアミニズム…。
MORE -
リテラリーマシン ハイパーテキスト原論/テッド・ネルソン著 竹内郁雄+斉藤康己
¥1,700
SOLD OUT
1994年10月初版 表紙少しヤケ 「リテラリーマシン 電子出版、ハイパーテキスト、思考のための玩具、未来における知性の革命、さらに知識と教育と自由に関してまで言及する、ザナドゥ・プロジェクトの周辺とそれ自体を語る報告書」 本はこの壮大な書き出しで始まります。1990年代にHTMLが開発され今では当たり前のように普及していますが、1960年代から現在のインターネットに近い構想を既に描いていたXanaduプロジェクトの考案者であり奇人テッド・ネルソンの思い描いた未来を語った怪作。インターネットの原案者に挙げられることもある著者ですが、結局Xanaduプロジェクトはずっと実現せず、なぜか1960年に提唱され、54年後の2014年に一般公開されています。 テキストの共有やリンクの概念、ウィンドウによる閲覧など、まさに現在のインターネットそのものだなって納得する箇所や、未だ実現はされてないであろう著者の構想が散見しています。技術的な所は私自身疎いのでよくわからない箇所もありましたが、いずれ来るべきインターネットの仕組みを予言者のように語る著者の熱意は十二分に伝わってきます。 私が本書で気になったのは2点。一つはハイパーテキストにより、知性が解放されて、知識は一部の閉鎖的なエリートたちだけでなく、多くの人々に共有されて新しいサブカルチャーを生み出されること。二つ目は思想が拘束され、思想警察のような存在が生まれプライバシーがなくなること。そして、この両面が将来衝突するだろうと著者は説いています。 「未来はずっと歩み続けるだろう。そして、情報にアクセスする(自由な人々の第一条件だ)者とそのアクセスを抑圧したい者との戦争は長引くだろう。この戦争は人類が粘り抜く限り続くものだ。」 著者は語ります。 ちなみに、テッド・ネルソンのハイパーテキストの原案になった、MEMEXという情報検索システムの概念をヴァーネヴァー・ブッシュという人が1945年に提唱しています。この方は原子爆弾開発者チームの一員でもあります。何か因果でもあるのでしょうか。
MORE -
バウハウスと茶の湯/山脇道子
¥4,500
SOLD OUT
1995年4月発行 表紙・帯に少しヤケ、中身は良好です。 茶人を父にもつ著者のバウハウス留学回顧録。バウハウスと茶の湯の文化を比較検証するというよりは、エッセイのように織物を専攻してバウハウスへ留学した時の体験が自然体で綴られています。 関東大震災のエピソードや著者の交友関係など、1930年代の当時の日本のモダニズム文化の空気や、カンディンスキーの授業の話などバウハウスの自由な校風も読中に感じられると思います。最後にはナチスによりバウハウスは閉鎖され、著者は日本に帰国しています。 ”私がバウハウスで学んだことを一言で言えば、「ものを見る眼」です。素材の特性を研究し、その美しさを知る。そしてその素材の持つ性質と独特の構造を探り出し、その持ち味を生かして、形を吟味して、使用する目的としっかり結び付ける。” ”茶道具の機能性は、バウハウスの不要なものを削ぎ落とした機能性と似ています。無駄を極限まで省いていった先にいくつかの要素が、最初からそこにあったかのような存在感を持ち、調和しているのです。” 本の結びで”私のものさし”と題して上記のようなことを語る著者。バウハウスで学んだものは、ものの本質を見分ける力であり、それは茶の湯にも通じていると語っています。本の帯で裏千家の家元 千宗室という方が、「一碗からピースフルネスを」と言っていますが、本著で語られるバウハウスと茶の湯に共通した美意識は時代や文化を超えており、まさにそのとおりだと思います。 バウハウスも茶の湯も説いているのは生活そのものをアートにすることで、このコンセプトって無印良品ですよね。うまいことやってるなって思いながらよく無印良品で買い物をしています。 審美眼を人に与えたバウハウスは教育そのものを芸術化させており、それはヨーゼフ・ボイスが提唱した社会の芸術化にも通じて入るんじゃないかなって個人的には思います。また、茶の湯は社交術まで芸術化させており、それは過酷な戦国時代において信頼関係を築くための最良の手段だったんじゃないでしょうか。両者とも社会形成をする力があり、最近その辺りが漠然と気になっていますがよくわかんないですねw。
MORE -
デザイン 1971年3月号 No.143 デザイン・テキスト3 バウハウス・理念と背景
¥900
SOLD OUT
ヤケ、擦れ、背表紙に折れあり バウハウス特集号なのですが、その中で、”ヴァイマール共和国の精神と形式/清水多吉”という記事で、ヒトラー政権が生まれる前後の社会状況について語っています。 バウハウスは世界で初の普通選挙を実施したヴァイマール憲法の自由な精神の元で誕生し、ヴァイマール憲法がナチス政権により効力を失うと共に、現ドイツの地を去り、シカゴへ学校を移しました。 ドイツ革命によりつくられたヴァイマール共和国は、新たな社会を夢見てドイツ革命を起こした民衆や兵士により組織されたレーテから、社会民主党そして、ブルジョアへと主要ポストが移行していき、最終的に世界恐慌を迎えて疲弊した国家において、人々は自らの手でナチス政権を擁立し、ヴァイマール憲法は無制限に政府に権限を与える憲法に改正されてしまい、事実上その力を失います。 ナチス政権の目標は疲弊した国家において没落した中間層の上層意識を利用したブルジョワの復権であり、行われた政策は暴力的に旧来の精神と権威を取り戻すための弾圧でした。ヴァイマール共和国時代の自由な精神で培われた芸術は、退廃芸術として迫害されていき、結果的にバウハウスは誕生した地を追いやられます。 自由な風土から一変して、ファシズムに転じてしまったというのは、なんと皮肉なことでしょうか。 もう、政府が国策を考えるという中央集権的な決定プロセスに根本的な原因があるのではないかと思っています。私はブロックチェーンによる自律分散型社会を目指す取り組みを支持します。
MORE -
未来派 FUTURISM 1909-1944/セゾン美術館他編
¥3,900
SOLD OUT
1992年発行 404頁 概ね状態は良好です。 坂本龍一のアルバムに「未来派野郎」というのが出ていますが、あの未来派です。未来派は20世紀初頭のイタリアの芸術運動なのですが、80年代の日本で一部では未来派について再考がなされたのでしょうか。私は当時を生きていないのでわかりませんが。 未来派は産業革命以後に起きた芸術運動の中でも、テクノロジーへの礼讃がとても顕著です。近未来を目指す80年代の思想的源泉として見直しがはかられたのではないかと思ったりします。 個人的には、ダダもシュルレアリスムも、バウハウスも確実に未来派の影響を受けているであろう作品ばかりで、その先見性は素晴らしいなと感じてます。 未来派創立宣言を行った首謀者の詩人マリネッティが気になり、文献を漁っていたのですが、結構邦訳されてる本が少なく苦労しました。中でもこの本はマリネッティやその周辺の人々の文章は結構邦訳されてる方だと思います。 あまりに文献がないので、英訳されてる本を頑張って読んだのですが、超右翼のマリネッティによるあまりに戦争賛美が凄すぎて、これは邦訳の本なんて出ないわwって感じでした。(本当にこういう理由で翻訳されていないのかは分かりませんが。)実際この人は、将軍になって戦地にも行ってます。新しい未来がやってきてるのだから、古い文化なんて戦争で滅ぼしてしまえ、それが世界の浄化になるんだ!って感じのテンションの方なんだと私は思いました。行き過ぎてるとは思いますが、テクノロジーとファシズムって観点で見てみるのも面白いと思います。 国立国会図書館デジタルコレクションに一つ作品あがっており、ネットで見れるのでリンクは貼っておきます。 電気人形/マリネッツイ 著 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/921521 (ちなみに国立国会図書館デジタルコレクションはおすすめです。自宅で見れる文献は限られていますが、公立図書館の専用パソコンを使えばかなりの文献が漁れます。日本の未来派の本で神原泰「未来派研究」というなかなか安くない本があるのですが、図書館にてただで読めます。) かなりボリュームがある本なので未来派について知りたい人にはおすすめです。
MORE -
グーテンベルクの銀河系 活字人間の形成/M.マクルーハン
¥1,800
SOLD OUT
1986年2月発行 表紙カバーに日焼け、角擦れあり。 15世紀にグーテンベルクが発明した活版印刷により、出版文化という膨大なメディア空間が出来上がった事で変化した社会を、活版印刷が普及し始めたルネサンス期を軸に前後を対比させて考察を進めるマクルーハンの大著。グーテンベルグの作り出したメディア銀河は、旧来の宗教や哲学、科学、芸術を革新させ、その影響は電子技術によりさらなる変化を遂げた現代へと続いているとマクルーハンは語りかけます。そして、現代はルネサンス期のようなメディア革命がやってきており、さらなる変化を遂げているのではないかと、予見的な著者の説が展開されます。 とまぁ、こんな感じで自分なりに書いてみましたが、勝手なことばかり書いてますね笑。 グローバルヴィレッジという言葉をまだインターネットが普及する以前に提唱している電脳空間の司祭のようなマクルーハンの言葉の中には、現在において感じているのだけれど、うまく言語化されていない社会変化のヒントが多く隠されているように思います。 マクルーハンの言葉に「われわれはバックミラーを通して現代を見ている。われわれは未来に向かって、後ろ向きに進んでゆく」という言葉がありますが、テクノロジーは車のように高速ですすみ、我々は現在を通り過ぎた過去としてバックミラーを通してしか見れていない、とそんな意味なのかと私は捉えました。 インターネットによって劇的に変わった社会変化を感じていても、その進む先は見ておらず、過ぎ去った過去としてしか現在を見れない。あぁその通りだなと共感はしましたが、やっぱり車乗っててちゃんと前が見えていないって危ないですよね笑。ちゃんと前を向いて生きないといけないなって思います。 シュルレアリスムもメディア空間において、現実が言語によって記号的に扱われ、それが意識の中で撹拌されてコラージュのような感覚が生まれた、なんて諸説をどこかで読んだような気がします。20世紀初頭の電子技術でシュルレアリスムですから、最早光速化している21世紀のメディア空間では感覚の変化をどうなってるんでしょうか。意識は撹拌されるどころか、絶え間ない摩擦で気化もしくは砂塵化してしまい、ただただ非言語的な空虚が仮想空間に広がっていく…。とまぁ私が根拠なく適当に語ってもはずれでしょうが、マクルーハンの緻密な考察は素晴らしいので一読をお勧めします。
MORE -
エトセトラ/加藤郁乎
¥3,200
SOLD OUT
1973年 1月 初版 箱付き(ヤケ、角擦れあり)箱付きということもあり中身は良好です。 現実に先だってゆく思い出のなかを、尾を頭にして進む渡り鳥のひと群れが眺められた。彼女たちは明らかに未来方向から立ち戻ってきて、いま、過去的現在の罠の方へ逆進化しつつあるのだ。… 小説の冒頭から飛ばしてるなぁと読み始ると、終止このテンションで未確認飛行をし続ける俳人 加藤郁乎の夢小説。俳句で現実描写を知り抜いた氏だからこそ現実を突き抜けた形而上の世界はまさに、氏の別著「形而情学」の世界です。 夢の世界へ誘うシュルレアリスムの小説や詩は数多くありますが、その素地となる感性は素朴な現実を描く小説や詩の場合となんら変わらないと思います。何気なく路傍の石ころを詠っていても、その詩情には奇想天外で神秘的な感覚世界が広がっている。なんてことがあるのではないでしょうか。 氏の大胆な文章の中にも本当は、現実を写生した俳句のように素朴で侘び、洒脱した果てがあるのではないか?と思って挑むように読むのですが、全く圧倒されるばかりで自分はまだまだだなぁと思わされてばかりです。氏の実験的で新しい表現の裏にある、細やかな感情の機微を感じ取れるようになりたい…。 最近なんだか似た様なものばかりで退屈だなぁ、なんて思っている方がいたら加藤郁乎を読んで一発やられて欲しいですね。
MORE -
表象の美学/マルセル・デゥシャン ミッシェル・サヌイエ編
¥3,000
SOLD OUT
1997年10月 第1刷 ビニールカバー付き箱あり 中身若干の日焼けあり マルセル・デゥシャン御大の作品「大ガラス」の作品に関連した文書録なのですが、何ぶん難解を極め、読書というよりは解読に近い体験をしました。何かを分かりたくて、4〜5回ぐらいは読み返しましたが結局一つの謎でしかありません。その謎は単なるわけのわからないものという意味ではなくて、定義を許さない表現の神秘のように感じます。 お前も何を言ってるんだよ、と思われそうなのですが、本書を読んでいて走馬灯のようにちらついた所感を書いておこうと思います。 デゥシャンは車の透視図面のように、2次元において3次元が表現出来るのであれば、3次元の透視図面を作れば異なる次元が表現できるはずだと画策しているように思えました。では、3次元の透視図面をどのように描ききるかが問題なのですが、その手法が大ガラスというレディメイドなのではないでしょうか。 レディメイドは、表象である事物に内在する意味を浮き彫りにする装置で、便器に泉と名前を付けたあの作品のように、本来の対象が持つ意味を失わせ、その裏側に内在している意味を、時にはキメラのような不条理な配置で、意味を浮き彫りにさせて受け手の無意識に訴えかけます。レディメイドは3次元で表現されていますが、そのメッセージは無意識という現実とは一段違うのレイヤーで行われている表現のような気がしています。 大ガラスは他のレディメイドよりも、その構造は難解を極め本書は解説書のように描かれています。この難解さの由縁なのですが、レディメイドに与えられた意味はとどのつまり、デゥシャン自身の主観そのものであり、それを激しく展開させていくので、読んでいてついていくのは大変です。 ただ、私が本書に感じるのは内容の意味への理解ではなく、あくまでも3次元のレディメイドが、違う次元を表現しようとしているという構造美にあると思います。 デゥシャンは本書で自分を信じることの大切さを強く語っています。自分の感覚を信じなければレディメイドは成立しません。デゥシャンが体現しているのは、自分を信じる大切さであり、その信念で未知の領域を表現するという、とてもシンプルな姿勢なんだと私は思います。
MORE -
超現実と俳句/鶴岡善久
¥500
SOLD OUT
平成10年9月発行 表紙カバーに少しよれ、裏面バーコード部分にはがれ、日焼けなし 「いきながら一つに氷る海鼠哉 芭蕉」 本の冒頭に芭蕉の句を引用し、著者は日本の俳句は現実描写にとどまっておらず、その先にある超現実を描いているのではないかと著者は問いかけます。 幻想的な超現実を描くシュルレアリスムの詩の手法が、なんら交流のなかった江戸文化の中に現れていた、と考えるのは個人的にはとてもロマンがあるなと思いました。 言語を記号化させて、幻想を描くシュルレアリスムの手法が確かに芭蕉や蕪村の句に見受けられます。現実を正確に描く写実主義から、印象派やシュルレアリスムへと向かう西洋の美意識の変化が、日本の俳句界にも現れているのかもしれません。 印象派のゴッホは日本画が好きだったと聞きますし、遠近法を使わず主観を重んじる浮世絵なんかは、キュビズムに通じているようにも思います。正方形を多用する桂離宮はさながら抽象主義のモンドリアンといったところでしょうか。 17世紀から19世紀にかけて鎖国をしていた江戸時代に、なぜ19世紀に生まれた西洋の近代芸術の片鱗が見られたのでしょうか。やっぱり日本文化すごい!...みたいな昨今の自国賛美は大っ嫌いで気持ち悪いと思っていますが、やはり日本文化も面白い。 ちなみに、話はそれましたが、本書は近代俳人の句も多く取り上げており、その方面でも良書だと思います。
MORE -
ジョアン・ミロ 視覚言語としての芸術/J.J.スウィーニー 瀧口修造・飯島耕一訳
¥2,000
SOLD OUT
昭和45年12月30日 初版発行 箱付き 表紙に少しヤケはありますが、中身はきれいです。 画集はあまり買わないのですが、瀧口修造の名前を見たら、買いたくなっちゃって…。 キュビズムから抽象、古代を思わせる彫刻からストリートアートを思わせる屋外作品まで、ミロの作品の変遷を感じられる画集だと思います。 屋外作品はバスキアに通じるものを感じました。 ここまで近代芸術を幅広く網羅している希有なアーティストの画集だからこそ、移り行く時代を射抜く一貫したミロの若く奔放な感性に触れられるかもしれません。 最近気になったのは、ラッパーのKOHHのリリックにデゥシャンやピカソ、ミロの名前が出てきたことですね。ヒップホップもキュビズムやシュルレアリスムも都市の美意識を表現しているという点では同じだと思いますし、コラージュや抽象表現なんて今ではすっかり当たり前なんだよな、と思いを馳せる今日この頃。 急速な都市化によって生まれた過去の近代芸術と、成熟し荒廃すら感じられる現在の都市に生まれたヒップホップに通じる感覚ってなんなんでしょうか。それはわかりませんが、ミロの生き生きとしたヴァイタリティーは今日の路上にも生きているのだと思います。
MORE